新うきさと通信 

三重県の山里から

      標高330㍍の風景

                                                                                                               借りたのは、どっち?

 (1月15日付からのつづき)

 翌月、甚吉を訪ねた。築50年ほどの民家を移築して30年になるという平屋の格子戸が開き、つるりと光った頭が朝の陽ざしを照り返した。

 「何の用や」

 「住連協の名前は出してへんて、斎院は言うてるで」

 「確かめたんかいな」

 甚吉はシジミそっくりの目をカッと開き、すぐに自分の胸の中を気取られまいとしてか、へっへへと口を曲げた。86歳の照れ隠しのつもりなのだ。

 「住連協ていうのはワシの想像や。車検代て言うもんでな、てっきり買い物バスの

ことやと思てな」

 「そんな大事なことを何で初めに言うとかんのや。人に物事を伝えるときにはな、実際にあったことと、自分の想像を切り分けて話さんと、とんでもない誤解を招いて、ただではすまんようになるで」

 翌日、市役所の出先機関、住民センターのグラウンドに停めてあるバスの車検ラベルを確かめた。期限切れまで11カ月残っていた。

 1週間後、明珍を訪ねた。ピンと張った薄桃色の皮膚が巻き付いた円い顔。93歳というが、だれも信じまい。80すぎで通るだろう。戦争体験があり、南京へ出征していたという。規模はともかく、「虐殺」はあった、断言する。自分は実行部隊には属していなかったが、毎週木曜日、隊員が「きょうはよく斬れた」、「刃がこぼれた」などと話しながら、軍刀を振りかざすのを見ていたらしい。戦争の話が終わると、いつも「ウソだけはついたらあかん」と、自分に言い聞かせるように付け加える。戦地で学んだ処世訓なのか。

 質問にはよどみなく答えてくれた。

 「おお、斎院と植井の2人がやってきた。住連協のことは何も言うとらんかったな。ああ、車検代やて言うてたけど、斎院が返しにきたよ」

 

 翌年の4月初め。斎院が住連協の会長と公民館長を辞めた、という記事が公民館が発行する広報紙に載った。1週間後、ウォーキングの途中で本人に出会った。

「前ぶれもなく辞めるんか。だれも知らんかったようやで」

 斎院は、ふわりと人工的な笑みを膨らませた。

 「3月末にさ、突然頭がクラっとしてさ、病院で診てもろたらさ、大したことはないけど、もしかしたら2週間くらいは入院せんならんかもしれんて言われたんや。けど、クスリで収まってるんでな…特殊な薬らしいけど、副作用がないんで医者もびっくりしとるんや」

 医者もびっくり、を2度繰り返し、斎院は健康が回復した時にだけ湧き上がる澄んだ笑みを目と口に浮かべた。

 それで?と迫った。

 「3月初めの自治連の会合では報告したんやけどな」

 「自治会の方はどうしたんや」

 「辞めた」

 自治連ー自治会連合会とは、近隣4地区の自治会の横の繋がりを深めるためのものとされ、自治会長が月1回、会合している。斎院は、その席で辞意を表明したという。

 「順序が逆さまと違うか。地元住民に知らせるのが先やろ」

 言い訳が通用せず、辞めてカタがつくわけではない、と悟ったのか、斎院は笑みを沈めた。

 次の弾を撃ち込んだ。

 「第一、会計報告もせんと辞めるとは何事や。聞いたことないで、そんな話」

 会員ではないので、自治会のことには口を出すな、と逆襲されるかもしれなかったが

 「えっ? してなかったか、会計報告。副会長の植井さんらに任せてあったんやけどな」

 と、乗ってきた。これで自分が正当化できると考えたのであろう。副会長は昨春、甚吉が辞め、後任は空席だったはずだ。いつの間に決まったのか。

 「役員会で決めたんや」

 自分に分がないことを知っていたのであろう、消え入りそうに語尾を細めた。

 「総会で報告し、承認されたんか」

 答えられないことは分っていた。

 第3弾を放った。

 「あんたは去年の8月から1回も会合を開いてないらしいな。暑いの、寒いのと言うて」

 これまでは月に1回は組長会議を開き、12月末までには会長を核とする新体制と会計報告をする慣わしになっていた。

 知らない、うっかりしていた。斎院はこの2つの言い抜け語で、自分に不利な事態を切り抜けてきたつもりらしいが、それがこの場では通用しないことを思い知ったのであろう、黙して語らない。新しい戦術なのだ。

 翌5月に入って、11カ月ぶりの組長会議が開かれ、新体制が決まった。会計報告もあったが、大雑把で分かりにくいのに異議はなかったという。

 会計は大手企業に勤めていた70代半ばの男が数年前に福祉施設へ入所、空席になっていたため、斎院が「兼務」していたというが、実際のところはよく分らない。斎院の指示で別の人物が実務をしていたかもしれない。

 2日後の昼下がり。ウォーキングで逸れた坂道から軽トラックが上がってきた。

 「ちょっと乗ってぇな」

 自治会の副会長を「留任」した植井が瓜実顔を突き出した。本職は大工だが、不況で仕事がなく、便利屋稼業をしていた。探るような眼差しの中で、損得だけを行動の基準にしてきた欲望の色がギラギラ光っている。

 この2年ほど、道ですれ違っても素知らぬ顔をしていたが、最近はどんな魂胆からか、気さくに声をかける。用件は分っている。自治会は法人化20周年を迎え、コンプライアンスが問われていて、総会の承認を得ていない人事は無効、と、発行しているミニコミに書いたから、こちらの顔色を伺いたいのだ。

 クルマでの同席は渡りに船。住民が払う月千円の会費からひねり出す年間3万円の手当のつく副会長を2人に増やしたことも不自然で、規約違反だと難詰した。植井はニガ笑いし、「これからも教えてや」と、「正論」に渋々頷いたが、辞任するか、どうか。

 一区切りつけ、借金問題を持ち出した。予想していたのか

 「それは、違う」

 と、軽く往なし、

 「カネを借りたんは斎院や。明珍さんとこへはワシが1人で行った。じかに受け取って住民センターの講堂の前に立っていた彼に手渡したんや」

 「斎院はそのカネを何に使うつもりやったんかな」

 「それは知らん。カネを借りてきてくれと頼まれただけやから。ただ、カネが要るということだけやった」

 「それやったら、どっちかがウソをついてることになるな」

 「そういうことやな。しかし、彼があんな二重人格者やったとは知らんかった」

 植井はこちらの方へ頭を傾げ、額の下で光る白く濁った眼の底に、ドロリとした笑みを湛えた。