新うきさと通信 

三重県の山里から

      標高330㍍の風景

                  汲み取り

 5月。デイ・サービスのらくらくセンターで昼食をすませ、同じ館内の住民センターへ立ち寄った。用があったわけではない。公民館長の斎院が目尻を弛め、応接ソファーへ手招きしてくれた。滅多にないことで、含意を伺わせた。

 「甚吉がな、畑に糞尿を撒いとるんや。絶対言うたらあかんで。あいつは怒ると怖いからな」

 「……」

 「汲み取りを1回もしとらんのや」

 「何で分ったんや」

 「山科さんが久しぶりに見えてな、村を出るて言うんや」

 「村を出る?」

 「そや。引っ越しや。こんなとこで生活できんて…」

 「それと糞尿となんの関係があるんや」

 「井戸水が汚染されてるらしいんや。汲み取りの記録簿にアレの名前だけがない」

 斎院は意表を衝かれたように声を高めた。「信じられるか、お前」と、付け足したかったのではないか。汲み取りは、希望者が3軒集まれば住民センターから業者へ依頼する仕組みで、きちんと記録されているらしい。

 翌日、自宅の前で甚吉に出会い、探りを入れた。

「町から来た人がな、この辺りで何か臭うな、と鼻をつまんでたで。初めて見る女の人やったけどな」

「そうか」

「だれかが糞尿を撒いてるんと違うか」 

「そんなことしたらあかんわな」

 甚吉は、延び切ったゴムのような表情を引き締めた。

  翌日、斎院にこのやり取りを明かした。

「言うなて言うたやろ」

  眼が怯み、こめかみの血管が膨れ、牛肉を切り裂いたような口唇の奥で歯がカチカチ鳴った。

 「お前の名前は出してへん。村の環境問題やろ。みんなで議論せんか。隠すな」

脳が頭蓋骨を突き破って飛び散りそうな怒気が躰の芯を駆け上がった。斎院は一瞬、後退りした。

  

                 「仕事やめる」

 自宅裏の山裾に落石防止網が敷設された。辺りは県が「高度危険崩壊地域」に指定していて、数年前に自治会長だった故布田専吉が行政を動かしたらしい。家を建てることを除けば、田畑や山林での仕事は言うに及ばず、屋根の修理・塗装、井戸堀り、水路の清掃・管理、クルマの修理など、何でも来いの万能者だが、自分の思い通りにならない物事や人物は呵責なく攻撃、村の仁王として君臨していた。

 山で鍛えた筋肉質の躰、尖った頬、射貫くような鋭い眼差しは、役所でも恐れられ、形式が整わない書類でも

「これでええやろ」

と、凄んで押し通す。

 工事は全長100㍍ほどで、1期目の寺が終わると。2期目の自宅裏は半年後に完成した。20㍍の幅を高さ2.5㍍の4つの鉄柱で区切ってある。網は見た目よりしなやかで、屈強のようだが、落下してくる巨岩がこれで食い止められるのか、どうか。

 現場には知人の力を借りて掘った深さ4㍍の井戸があったが、僅かな補償金で撤去され、代わりに70㍍離れた携帯電話の基地の傍にある井戸を借りることに。数十年前、ここに住んでいて、いまは町暮らしの小学校時代の同級生に斎院が話をつけてくれた。

 夜。植井を訪ねた。大工を生業にしていたが、村では専吉と同様に「何でも屋」として知られる。

 「井戸の工事してもらえんか」

 「……」

 沈黙に意味を含んでいるのは分っていた。 

 「やってくれるか」

 焦らした挙げ句に 

 「よっしゃ、分った」

 「工賃はいくらかな」

 玄関の黄色い灯の下で、ドロンとした円い目が貪るように光った。

 「ワシは日当2万円もろてるんやけどな」

 ウソだ。相場はそれより5千円は低いはずだ。本職ではないのだから。まして、村では時間給千円が慣わしだ。

 「全部で3万円でどうや。ただし、3時間でやろうと、2日かかろうと同じや」

 「よし、それでやる」

 内心、ほくそ笑んだに違いない。1日あればツリがくるはずだ。

  翌日、頼まれたポリプロピレンのホース100㍍分と、専用のポンプをホームセンターで買い求め、軽トラックに積んだ。なぜか気持ちが弾んだ。工事は半日で終わった。 

 夜。再び植井を訪ね、1万円札が5枚入った封筒を手渡した。数え終わった植井は

 「悪いな」

と、小鼻を膨らませ、歯茎を曝した。平静を装いたいのだが、込み上げてくる歓喜を抑え切れないのだ。領収書を受け取り、次の工事についての打ち合わせを4日後の午後7時、当家ですることを決めた。

 その日、約束の時刻に植井は現れなかった。30分すぎても連絡はない。闇の中、下駄をつっかけ、100㍍先の彼の自宅へ急いだ。白蝋色の顔をした70がらみの妻が現れ、村のどこかで寄り合いがあり、すみません、と頭を下げた。携帯電話をかける。湿った声が耳朶にジトジト流れ込み、晩春なのに首筋が冷えた。すぐ引き返した。

 数分後、玄関のアルミサッシの引き戸が開き、40㍗の裸電球がぶら下がった上がり框で禿頭がテカテカ光った。

 「すまんな。自治会の寄り合いがあったもんでな」

 目の縁が赤銅色に染まっている。飲んでいたのだ。胃の底から真っすぐ噴き上げてくる熱塊を喉から下げ戻し、静かに口を開いた。

 「次の工事の件やけど、どうしたらええんかいな」

 「……」

 腕組みしたまま、答えない。

 「次の工事、どうしたら…」

 「部材を買うのに待ち時間があるやろ。その分も工賃に含んでほしいんやけどな。まぁ、クルマのガソリン代までくれとは言わんけど…。あかんのやったら、工事はやめや」

 こんな商慣習は聞いたことがない。部材を買うのに多少の待ち時間があるのは分り切っている。どんな店でも同じだ。それも今回は種類が少なく、精々数点だろう。

長くても10数分あれば受け取れるはずだ。それを工賃に換算してくれというのか。第一、3万円の工賃を7割も引き上げてやったではないか。酒を飲み、人を待たせておいた上に、その言い草は…。

「やめるなら、やめろ」

 窓のガラス障子が震えたのではないか。どす黒い沈黙の皮膜が2人をすっぽり包み込んだ。

 やがて、植井は足を組み直し

「最初の工賃でやらせてもらうわ」

 と、皮膜に小さな孔を開け、再び黙り込んだ。問題はまだ残っているのを知っていて、こちらの問いを待っている。

 「ポールを建てるセメント工事があるやろ」

 「ああ」

 井戸のポンプを作動させるには、電源の電柱ケーブルとポンプの間に細い短管を立て、それぞれを電源でつなぐ必要があり、その短管を固定させるために、地中に差し込んだ周りをセメントで固めねばならない。それにかかる費用を訊いた。が、植井は応えない。

 「いくらかかるんや」

 どんな作戦なのか、押し黙っている。

語気を強めた。

 「いくらなんや」

 「初めてのことやから、分らんなぁ」

 「分らんて、なんでも相場というもんがあるやろ。便利屋のあんたが、そんなことを知らんのか…材料代は別で、1万円どうや」

 「おっ、それやったらやらせてもらうわ」

 植井は反射的に応じ、すぐ呟いた。

「7千円くらいかな、と思てたんや」

 窓が水滴で濡れ始めた。