あの日、私は貴殿が発狂したのか、と思いました。 イスに腰を下ろすやいなや、ヒステリックな甲高い声が診察室を揺さぶった。「このまま何もせず、放っておいてもそうなるんや」(そうなるとは、失明するということ)。呆気にとられていると、「(手術失敗の確率は)0.01%くらいや」、「(手術の費用は)何百万円もかかるんや」、「このままやと、見えんようになるわ」と、機関銃の如く浴びせかけられました。
「(治療のことで)何か言ってきた患者さんがいるのですか」と静かに問うと、貴殿は尖った視線でこちらを見据え、黙ったまま。ああ、手術に失敗したのか。私はそう推し量りました。
3年ほど前、左眼の白内障の手術後、言われるままに3、4 ヵ月に1度のペースで通院していました。やがて右眼の視力も手術が不可避なほどに低下、3月初めに診察室へ足を踏み入れたのでした。
帰り際、駐車場へ走り寄ってきた看護婦さんが「次は検査に1時間かかりますので」と告げてくれましたが、貴殿の手術への躊躇いを感じていただけに、遠くで何かを呟いているような不自然さを感じ、むくむくと不安が膨らんできました。
1週間後、別の眼科医で事情を説明、快く受け容れて頂きました。術後の通院も、2週間のうち、4度だけ。「変わったことがあれば、いつでも来院を」と説明されましたが、8カ月たった今も異常なし。
医師は「する」側として患者を診るが、「される」側の患者も医師を観ています。両者の関係は対等です。ある作家のように「患者は客だ」と、開き直るつもりはありませんが、患者を自らの支配下に置き、いかなる暴言や振る舞いも許される、と信じて疑わない医療精神はとんでもない思い上がりで、必ず破綻します(この2年ほどの間に、2事例あり)。
医療は無機質な技術による器械の修理ではありません。病を治癒することによって、当人の健全な人生はもとより、その家族、ひいては国家の維持さえも担う一大事なのです。願わくば、こうした「患者学」を深く学ばれ、貴院を訪ねる人に至誠を以て向き合われますように。
緒方洪庵やシュバイツァーが崇敬されるのは、その真実への敬虔でありましょう。かの養老孟司さんが「日本の医学界が犯したきた最大の問題は、試験の点数ばかりにこだわって、『人間』をみてこなかったことだ」と喝破されたことが切実に蘇ってきます。