新うきさと通信 

三重県の山里から

    今できることは、今やろう

              かかりつけの医師が急死

 かかりつけの医師が急死した。ガンだったらしい。ひと月ほど前、いつものように窓口で診察券を差し出すと、看護師が「急に来られなくなりました」と、医師の不在を告げた。なぜ?と問うと、「わかりません」と、消え入りそうな声で俯き、厚いボール紙を取り出した。「休診」から始まる短文の最後に「他の医療機関で受診してください」とある。

   2、3年前にも同じことがあり、はっきりしない看護師の態度に異議を申し立てた。「事情は詮索しませんが、患者には患者の立場があります。3カ月かかるのか、半年すればメドが立つのか。大まかな時期を示してもらわないと、私たちはどうすればいいのかわかりません。場合によっては、通院先を変えるかもしれません」。1週間ほどして、代わりの医師が週に2回ほど登院、2カ月ほどで旧に復した。

 今回は、休診と他の医療機関とがセットになった医師の言葉が示されていて、前回より、深刻な事情があることは察せられた。いつもは2週間分なのに、この日は4週間分のクスリを看護師から手渡された。

 「急死」の思いは、最後の診察時の様子が普段通りであったからだ。今にして想えば、あの時、すでに病膏肓であったろう。粛々と血圧を測り、採血を済ませ、血糖値を告げた。どこにも「異常」はなく、気取られまい、とする不自然感は微塵もなかった。 

 齢59だったという。村には10人ほどの患者がいて、ショックは露わだ。「急死」の驚きと、「次」の医院への迷いがない交ぜになっている。「通い慣れたところは安心できます」、「新しい医者がどんな人か心配」。ムベなるかな。カラダをさらけ出してきたのだから。

 それにしても―。きょうできることは、きょうやろう。あすに、来週に、来月に、来年に…と、先延ばしすることの愚かしさ。旨いものは、いますぐ喰おう、行きたいところはには、いますぐ行こう、会いたい人には、いますぐ会おう。時間のうち、あるのは過去と現在だけ。「未来―あす」など、ありはしない。それは、単に頭の中の想像物にすぎない。まだまだ若いこの医師は、その過ちがもたらす生―時間の空費を「死」をもって戒めてくれた。