新うきさと通信 

三重県の山里から

      ある眼科医への手紙

 医療事故が絶えない。原因は医師の「技量」にあるのではなく、「人格」にあるのではないか。筆者(新うきさと通信発行人)は3年前、松阪市内の眼科医で受診した際、思いがけない体験をした。以下は、その医師に宛てた意見書である。(本稿は2018年1月発行の紙のうきさと通信からの転載です)

                                   大窪興亜

                          

 拝啓

 私は昨年6月17日、左眼の異物を取り除くため、貴院で受診しましたが、容認しがたい疑問が残ったので意見を表明します。

 診察に取りかかって間もなく、貴殿は「ここで(異物が)取れんかったら他へ行ってんか」と、突き放しました。結果は「何もない」とのことでしたが、なおも不快な違和感が残っていることを告げると、「瞼の裏に傷があり、癒着もしている」とした上で、その原因については「トラコームでもやったんと違うか」と、冷ややかに受け流しました。

 さらに、針で刺すような痛みを「チクチクする程度のことやろ」と、軽くあしらい、「そんなものではない」と否定すると、不満気に「(目に入ったのは)おがくずやろ」と、一蹴しました。初めに「農作業で木くずらしいものが飛び込んできた」と、説明したにも拘わらず、です。同時に異物が上下に移動することも訴えましたが、「そんなもの、動くかいな」と、嘲り、上目遣いにとどめを刺しました。

 私の問題意識は診察の結果ではなく、その態度・姿勢にあります。診察も終わっていないのに、「他へ行け」とは何事ですか。医師の使命を放棄した暴言ではありませんか。貴院で分らなければ総合病院を紹介するなどの正しいセカンドオピニオンの推奨こそ、医師に求められる良心のはずです。

 「トラコーマでも…」や「眼の中で動くかいな」などの発言の裏には、医療のマニュアルになければ患者の思い込みにすぎない、との専断があるとも推量されますが、そうした常識の外側で起きた症状を解明することで医学は発達してきたのではありませんか。第一、私には眼の既往症などありません。

 医師も人間。気分の起伏はあるでしょう。が、「オレの言うことを聞け」と言わんばかりに患者を支配下に置き、質問に向き合おうとしない傲岸不遜は、それを超えた医療の根幹に関わる重大事です。

 症状の質量に関わらず、患者には自らの身体異変についての疑念を晴らしたいという至極、当然の欲求があり、医師にはそれに応える責務があるはずです。

 医師は患者を診るが、患者も医師を観ている。両者は「する」側と、「される」側に二分されていても、そこにあるのは対等な社会的関係です。医療はその信頼関係の上に成り立ちます。

 作家小関智弘の「患者は客だ」の視点もありますが、それは、患者が医師よりも優位にあることを意味しません。あの日、私は「お世話になります」と頭を低め、診察室に足を踏み入れました。貴殿は忘却されているでしょうけれど。

                               :敬 具