新うきさと通信 

三重県の山里から

標高330㍍の風景…「医師の診断書を」

            石垣から見下ろす3匹の犬

 住み家を紹介した隣家の住人が10日ほど後に「実は、犬がいるのですが…」と、低い声で打ち明けた。秋田犬2匹、柴犬1匹。そんな大事なこと、なぜ前もって言わない。正直に告白すれば移住を断られる。そんな計算があったことを後日認めた。

 犬は1週間後、自宅裏の空き地に放し飼いされた。納屋へ行くたびに、高さ2㍍ほどの石垣から見下ろされ、薄気味悪いことこの上ない。32日間の我慢の末、談判して別の農地へ移させた。知人曰く、「私なら1週間でブチ切れる」。

 欺かれたことへの不信感が拭えぬまま3年、今度は自治会の会計問題で不祥事が起き、他の用件のついでに他県にいる家主に改めて電話で告げた(前年には直に話してある)。が、「ストレスが溜まったのなら、それを証明する医師の診断書がいります」。耳を疑い、もう1度質す。「そうです。証明です」。犬でなく、ヘビならどうか。隣家の庭の木の枝が自宅の庭に垂れ下がった。よくあるケースだが、抗議するなら「不快診断書」を添えよ、と言う理屈になる。

 世の中には、人に迷惑をかけないための経験と想像力に裏打ちされた「常識」や「通念」がある。暮らしの中でのもめごとは、これによって裁き、解決を図る。人間が永い歴史の中で培った知恵である。「診断書」は、それでもラチがあかず、訴訟沙汰にもつれ込んだ時だけに必要となるはずだが、「不快」を医学で診断することなど、いかなる名医でもできまい。だからと言って、これを当人の「錯覚」と断じ、相手を「無罪」として放置することが許されるのか、どうか。涙をいくら分析しても、人の悲しみは解らない。

 家主は「規則」や「制度」の中で生きる中央官庁の役人である。住人の移住にあたっては、世話になった人に頼まれて仲立ちし、懇願を快諾してもらった。その点は感謝しているのだが。