新うきさと通信 

三重県の山里から

       標高330㍍の風景

                家主だ、草を刈ろう

 エンジンの狂音が澄んだ空気を木っ端微塵にしている。2カ月ぶりだ。男用のヘルメットをかぶっているが、身のこなしで女だとわかる。

 当家との距離は2㍍ほどしかなく、出入りのたびに胸苦しくなる。自分たちの暮らし方が近隣にどんな影響を与えているか。他人の目で自分を見られない41と44の、押しも押されもせぬおっさん、おばさんの夫婦だてら。

 ツユ入り少し前の6月初め、訳を話し、その茫々の草を刈り取ってほしい、と2人に申し入れた。2日後に実行されたが、粗削りで、投げやり。針の孔ほどの誠意も感じられない。あれから2カ月、なぜ、この時期に。もしや―。2日後の盆前、案の定、夫婦宅の家主がいつものようにやってきた。広島から。

  

 家は築6、70年の元国立大学名誉教授の別荘。4年前の死去に伴い、その長男からタダで借りていて、代わりに掃除や窓の開放なども含めた管理をしていた。若者たちの集いの場になれば、と考えたからだ。

 ある日、おやすみ処の女将から電話があった。この家を貸してやってほしい、という。すぐ、歩いて3分ほどの店へ出向いた。借りたいのは若い夫婦だという。女将には10数年前、持ち主に話をつけてもらい、畑を借りられたという恩義ある。当人たちと面談しないまま、その場で家主への取次を引き受けた。

 その夜、家主にメールした。女将の名と職業を伝えた後、〖村に若者が移住してくるのは喜ばしいことです。私からも前向きにご検討下さいますよう、お願いします〗。返信はすぐきた。家賃はいらないという。

 2週間ほど経ち、町での買い物から戻ると、家主が家の周りを巡りながら、若い男に話しかけていた。1階は6畳2間と押し入れ、床の間。台所のある土間は広く、昔の竈もそのまま残っていて、風情たっぷり。黒光りした柱と廊下は太く、厚い。2階は6畳2間。床の間もある。隣接して15畳ほどの新しい組み立てハウスがあり、風呂、トイレ、脱衣場が備わっている。

 標高330㍍の、自然豊かな山里なのに、市街地までクルマで25分。家主から井戸の説明を求められ、数10㍍離れた現場へ案内した。自治会長の斎院の同級生で、いまは町で暮らす70過ぎの男性が暮らしていたころに使われていたもので、専用のホースで水を引いている。水代はタダだが、吸い上げるためのポンプの電気代は要る。夫であろう30がらみの細身の男に、その使用量を示す専用メーターの取り付けを求めた。公共料金なのだから。

 男は

「他にも家を探してますので」

 と、即答を避けたが、家が気にいったのは顔つきで分る。こんな条件の住まいは滅多にない。

 案内は1時間ほどで終わった。玄関の前で待機していたおやすみ処の女将の娘がこちらに向かって叩頭していた。謝礼なのであろう。

 

 引っ越しの荷物を積み終え、暮らし始めたのは2週間ほど経った12月初め。10日ほど経ち、男が庭先から話しかけてきた。

 「犬がおりますんやけど、3匹。嫌いですか」

 そんな大事なことをなぜ、事前に言わない。世を欺いている。

 「嫌いやないけど、好きでもないな」

 「そうですか…」

 男は声を低め、目を伏せた。

 犬は1週間ほどで当家の真横の庭に姿を現した。秋田犬2匹、柴犬1匹。体長1.5㍍ほど。

 「フンの始末はどうするんや」

 「ちゃんとやりますよ」

 さらに1週間後、町から戻ると、犬は当家の真裏の空き地に移っていた。高さ2㍍ほどの石垣との距離は2㍍余り。金網、ペンチ、スパナ…収納棚から道具を取り出すたびに上から6つの目が見降ろしている。視線がクビに巻き付き、息苦しい。そのうち、金網を乗り越え、襲いかかってくるのでは…。

  1軒おいた隣のデイ・サービスで食事中、向かいの席の甚吉がへっへへと、きんぴらごぼうを箸の先で摘み上げ、何かあるときの、いつものサインを出した。

 「あんたとこの裏の空き地、フンだらけやで。墓参りの帰りにふと見たら、なんか黒いもんがパラパラ散らばってるんで近寄ってみたら、犬がおってな…」

 最後まで聞かなくても分った。きちんと処理する、という約束だった。あれから1カ月、信じ切って忘れていた。

 翌朝、寺の墓地の近くから確かめた。40坪ほどの四角い空き地に、腐ったバナナ状の黒い塊が1面に散らばっている。翌日の昼過ぎ、大場を訪ねた。夫は居ず、2階から降りてきた妻に怒気を込め、直ちに犬を道沿いの畑に移すように迫った。妻は落ち着き先を探すように視線を小刻みに巡らせ

 「用事で出かけますので」

 と、先回りして攻勢を躱した。

 (これが40歳の人妻。「お話は承りました。ご迷惑をおかけして申し訳ございません。急ぎの用がありますので、主人が帰りしだい改めてお伺いします」と、なぜ言えぬ)

 夜。先に夫が、暫くして妻が訪ねて来、犬によるストレス、場所の移動について静かに話して聞かせた。2人の諒解は鈍かったが、移住にあたり、おやすみ処の女将からの頼みで家主に仲介と懇請をしたいきさつを明かすと、目を見開き、頭を垂れた。女将から聞かされていなかったのだ。この間、2時間半。だが―。約束は実行されない。3日、5日、1週間。何をしている。

 1月近く経った日の昼過ぎ。町から戻ると犬は移動していた。注意しておいた通り、大阪にいる畑の持ち主の許可は貰ったらしい。が、2匹しかいない。叢の陰にでもいるのか。200坪ほどの畑を見回したが、残りの1匹の柴犬が見当たらない。道具を収めた物置側へ回ると、毛並みの豊かな黒犬が元の場所でこちらを見降ろしている。

 なぜ、3匹を1度に移さない。仔細があるのか。黙って言いなりになるのは沽券に関わる、とでも言うのか。それとも、ひん曲がった嫌がらせか。5日待った。変わりはなく、訳を質して男に迫った。 

「そろそろ、移そか」

 薄笑いを浮かべ、小さな顔の分厚い唇を歪めた。

 移住当時は雨合羽を貸したり、石油ストーブをタダで譲ったり、野菜を提供したり…できることは何でもした。2人に志を感じたから。翌日、柴犬は移されていた。

 

 大場が自宅の石垣の草を刈り取っている。当家の真横で、外出のたびに胸苦しい。

  「ありがとう 」

 思わず、必要のない礼を言う。 

 「いいえ」

 それにしても…考えられない。何があった? 訳を訊いた。

 「下の草はどちらが刈るのか、自治会に訊いてみたんです。そしたら、この村では自分が住んでいる土地なら自分がやる慣わしになっていると、教えられたもんで…」

 「下の草とは?」

 石垣から生え出た草のこと、と答え、以前、住んでいた地域では、耕作者が異なる隣合わせの田んぼの畔の草刈りを巡ってもめたことがあるという。畔は両者が共同で利用しているが、所有権の確定が難しいかららしい。が、このケースは違う。その土地の所有者か居住者が刈り取るのが当たり前であり、議論の余地などない、と説明した。大場は納得のいかない様子で、薄く嗤った。

 

 台風が襲い、甚吉の強い誘いで初めて避難所のデイ・サービスの施設へ移動した。老女が2人、談笑している。時折、強い風雨が舞うが、25年ぶりと報道されているほどのことはない。「最大風速50㍍」は、中心付近の威力であり、その外側には暴風と強風の2つの勢力圏があることをアナウンスしないのはなぜか。集落は強風圏で、それほど恐れることはないはずだ。

 昼過ぎ、和室へ移り、寝転んだ。暫くして大場の妻が入ってきた。放ったらかしの茫々の草を、家主が来ると分った途端、慌てて刈り取ることの心の在り様に触れた。

 「家主は神だ。が、年に1度しかやってこない。隣家の住人とどちらが大切か天秤にかけよ、とは言わないが。が、前にも訳を言って頼んである。延びてきたらその都度、刈り取るのが当たり前ではないのか」

  妻はぐにゃりと項垂れ、無言。そも、この家に、タダで暮らせるこの家に、だれの厚意で移住できた? 犬でも恩義は忘れないというではないか。何を考えて生きているのだ。

 知らぬ間に正座姿の夫が居た。部屋が広く、出入り口が離れていて気付かない。紙障子で、開く音も聞こえなかった。丁度いい。ついでに聞くがよい。農作業で忙しく、疲れていた? ウソだ。たかが小庭。ものの10分あればきれいさっぱりだ。嫌がらせをしていたのだ。あの犬の時と同じように。

 夫は反撃してきた。

 「責めてるでしょ、薬王寺さんは」 

 モノの言い方が気にいらないのか。盗人にも3分の理。無理やり言い分を作り、己の非を減殺する試み。

 「何を言うか。何度も同じ問題を繰り返せば、口の利き方も強くなるのは当たり前だろ」

「指を切ればいいのですか」

 草刈りと指の切断となぜ結びつく?

「何を言うか。約束通り、きちんと草を刈ればそれで済むことではないか。最高学府を出ているというのに、そんなことも分らないのか。人のイヤがることをするな」

 分が悪い。が、このまま引っ込めない。2度目の反撃が来た。

薬王寺さんは、あちこちで人とぶつかるそうですね」 

 誰にモノを言っている。草刈りと何の関わりがある。土俵の中では勝てず、場外戦に持ち込もうという魂胆か。

「その通りだ。だが、1つ1つ、そのことがらを検証すれば、ああ、そうでしたか、と納得させる絶対の自信が私にはある」

 だれが言ったか、凡その見当はつく。それを鵜呑みにして己の拠り所を守ろうとする卑しさ。

 夫は突然、頭を畳に擦り付け、米つきバッタさながらに上下運動を始めた。こちらも同じ体勢でバッタに変じた。5回、10回、20回…。向き合う2匹の大バッタ。

 「頭を上げてください」

 妻がこちらの名を叫んだ。

 「哀願」に応じ、前を見た。夫はまだ反復している。演技に過ぎないことを見抜かれていることも知らずに。1時間足らずで風雨が弱まり、夕刻前に帰宅した。

 翌朝、台風で玄関前の小径に破れた糠袋が転がっていた。町から戻った昼前には片付いていたが、十分ではない。風が吹けば当家の勝手口へ舞い込んでくる。またしても嫌がらせか。軍手で残りをダンボールに詰め、畑に居た妻に静かに手渡した。

「ありがとうございました」

 消え入りそうに肩を窄めた。

 

 <昨年の夏。石垣から蔽いかぶさる1㍍余りの草の群れ。空き家の時にはこちらで始末していたが、今後は入居者が刈り取る約束をしていた。昼前、耳朶をかき乱すエンジンの唸りを背に、町へ出かけた。戻ってみると、夥しい刈草の残りが庭から当家の勝手口まで散らばっている。

 すぐ抗議した。大場は関節が外れたように手足をブラつかせ、裏庭へ降りると、草を鷲掴みにし、自宅の庭へ移し始めた。1度や2度の作業ではすまない。何度か往復を繰り返すうち、極細の針金のように声を漏らした。

 「ボクらはここへ引っ越さない方がよかったんですかねぇ」

 「何もそんなことを言うとらんやろ」

 翌日、大場が庭先から声をかけてきた。残り糠の負い目があるのか。

 「きのうはありがとうございました。ここで畑をしてもよろしいですか」、「ああ、ええがな」>。