新うきさと通信 

三重県の山里から

    増える子どものような大人

             共通点は「ことぱ」の貧困

 子どものような大人が増えている。あるコメディアンは「大人の中2」と喝破した。頭の良し悪しや学業成績には関係なく、「精神」が幼いのだ。共通点は「ことば」の貧困。たとえば、こんなことを平気で口にする。それが人を生かし、殺しもする力を持っているとは、ツユ知らず―。

  

 痩せたな 久しぶりに出会った知人が細っていたらどんな声をかけるか、数人の男女に訊いてみた。全員が「痩せたなぁ」。当たり前のようだが、その原因への想像や、言われた側の気持ちを顧みない「無神経語」だ。自分で分っている弱点を指摘されることほど不快なことはない。

 もし、それが重い病気によるものだったら、相手は深く傷つくだろう。取り返しのつかない罪を犯したことになる。こんなときは「スマートに…」、「スリムに…」と言い換える。その思いやりと知性はしみじみとこころの最深部に刻み付けられるに違いない。太った人なら「貫禄がついたねぇ」はどうか。

 殺風景やな 新築の家に知人が訪ねて見え、何も置かず、額さえ掲げていない畳だけの部屋へ通した。開口一番、「殺風景やな」。これは一種の否定語であり、それこそ「殺風景」だ。相手に負の感情が芽生えることが分っていない。「茶室にできるね」と

品性を示せば、相手はその美意識に打たれ、人間関係は文化的に発展していく。

 古い・汚い 2つは同義語ではない。古くても清潔なものはある。念入りに雑巾がけされた寺の廊下などは、古いが汚くはない。ただ、こんな場合は「年季が入っている」と、時間の経過―歴史を感じさせることばに置き換えることで文化財のようにも聞こえ、心地よいのでは。

 「汚い」は「臭い」と並び、人は生理的に忌み嫌う。よく注意していないと、簡単に口に出してしまう。場合によっては、人格までもそうなのだと言われている気がしかねず、こちらも相手を軽蔑し、反発する。人間関係は最悪の事態に転落するだろう。こんな場合も「年季が…」が有効かも。

 野暮用 頼みごとで人を訪ねたとき、これを使うと誤解を招くことがある。自分では謙遜したつもりが「そんなつまらぬ用で来たのか」と、のっけから相手を怒らせる場合がある。ビジネスの世界では禁句の1つであろう。「自分にとっては大切な用なのだが」という含みがあっても、相手には真意が伝わらない場合も。頼みごとは「必要」だからこそするのだとすれば、「自虐」は嫌味に聞こえる。

 ヒマか 人を誘うときによく使われるが、応じる気でいても断りたくなる。「何もすることがない」と、バカされている響きがあるからだ。「ヒマ人」とは、貴重な人生の時間を空費する「ろくでなし」の意であり、人格否定だ。「お忙しいでしょうが」と、相手の「生」を尊重しながら問えば、素直に反応してもらえるはずだ。

 

 ほかにも、いろいろあるだろう。何を言い表すにせよ、ことばは「技」ではなく、「誠」によって相手に伝わる。それは、創意や工夫を超えた「絶対律」のようなもので、軽はずみな言い換えは、本心を見透かされて拒絶され、逆効果となる。ゆめ、「ことばあそび」をするなかれ。

  それにしても―。大人の幼児化が国家規模で進んでいる。その挙げ句の果てに 「いつか来た道」へ逆戻りし、個人の夢や可能性が根こそぎ破壊されかねない。その裏に政治の企みがあるかもしれず、忍び寄るものへのアンテナは常に研ぎ澄ましておかねばなるまい。声が大きいだけの、空疎な煽動に乗せられないためにも。