借りたのは、どっち?
8月末の夜、ラジオを聴いていた。ベランダで人の気配がし、カーテンを引いた。蒼い月灯りを浴び、甚吉が突っ立っている。窓を開く。へっへへ。いつもこうだ。ほかに嗤い方はないのか、この男は。
「何の用や、こんな時間に」
「へっへへ。おもろい話やで」
ソファーで組んでいた足を解き、身を乗り出した。
「斎院と植井がな、住民連絡協議会のクルマの車検代を明珍さんとこへ借りに行きよったんや。県道の草刈り代が入ったら返す言うてな」
県道の草刈り代とは、もともと県から業務を委託されていた業者が財政の苦しい自治会に権利を委譲、夏、秋の2回で85万円ほど交付されている税金だ。1回目は7月に自治会の口座に振り込まれるから、斎院らは春以降に明珍を訪ねたのであろう。
「何でそんなこと知ってるんや」
「店へ行ったらな、明珍さんがおってな、県道の草刈り代はいつ入るんや、てワシに訊くんや。何でやて訊き返したらな、2人がカネを借りに来たて言うことや」
店とは、村人向けに自治会が作った日用雑貨の店だ。
「何ぼや」
「20万」
住連協は、自治会や老人会、福祉会、商店会など、すべての団体を統合し、地域おこしをしを市内の全域に広げようと、三代前の市長が発案、市民が強引に協力させられて出来上がった体のいい「手抜き機関」だ。これで、印刷物など、行政が団体ごとに交付していたものを、窓口を1つにすることで手間が省けるが、市民には強いアレルギーがある。
その住連協のクルマの車検代とは?。たしかに、市から払い下げられた住民の買い物専用のマイクロバスはあるが、独立した会計があり、必要なカネはそこから出せばすむはずだ。
それを質すと、甚吉は
「ワシもおかしいと思たけど、カラクリがあるんや」
「どういうことや」
「植井が明珍さんから借金したということや」
「…つまり、植井が住連協の名を騙って明珍さんからカネを借りたということか。斎院がその手伝いをしたわけやな」
「2人で相談したんやろな」
だが、そのカネの一部が斎院から植井に渡っていたことがなぜ分るのか。甚吉の話は込み入っていた。
「あのとき、店にはワシの傍に菜穂がおってな、聴いたことを風間に喋ったんや。風間は自治会の会計の実務をやってるからびっくりしたんやろな、明くる日に2人で斎院に事情を確かめたんや。そしたらな、斎院がな、アレは植井のために借りてやったんやて、答えたらしいんや」
菜穂は数年前、名古屋から移住してきた30過ぎの独身女性。町の洋装店で働いているらしい。
「なんでそんなことを…」
甚吉は情報通だが、今回は詳しすぎる。
「2人が昨日、そのことをワシに打ち明けに来たんや」
この話が事実としても、斎院が植井の名を明かすとは何事か。2人は小学校時代の同級生であり、その誼で夫婦同然の付き合いをしている。斎院の自宅前には、昼夜を分かたず、植井の軽トラックが停まっていて、公私ともにただならぬ間柄なのはだれもが知っていた。
たとえ、カネを渡した相手の名前を訊かれても口外せず、本人の名誉を守り抜くべきではないのか。
甚吉は口元にぶくぶくと白い泡を溜め、意味を含んだ笑みを刻んだ。
「斎院はな、自分も植井にカネ貸してあるんやが、なかなか返してもらえんと、こぼしとったらしいわ」
「それで明珍さんに借りてやったというわけか」
「そういうことやろな」
甚吉は顎をしゃくった。
翌月の中ごろ、ウォーキングの途中で自宅から出てくる斎院に出くわした。
「住連協のクルマの車検代を明珍さんに借りて、それをある人に貸したらしいな」
斎院は、質問を待ち受けていたのか、細い銀縁の眼鏡の奥でチリメンジャコに似た目をさらに細め、それがどうした、と言わんばかりに、すらすら答えた。
「住連協の名前でカネを借りたりするかいな。そんなことしたら大変なことになるがな。それくらい分ってますよ。アレは自治会の仲間に貸してやってもらえませんか、とお願いにあがったんや。もちろんカネは植井さんに渡したよ…ワシ、もう辞めるわ」
「辞めてすむ話ではないで」
自治会長は請われて引き受けた。問題があれは゛いつでも辞める。そんなことをいつも口にしていた。が、ここでも、訊きもしないのに植井の名を明かす。自治会の会長を何とかやってこられたのは、彼が相棒としての役割を担ってきたからではなかったのか。植井が知れば何が起きる?
(つづく)