新うきさと通信 

三重県の山里から

     標高330㍍の風景

 右も、左も、前も、後ろも…スギ、ヒノキ、タケでむせ返る標高330㍍の山里の集落で綾なす風景のかけらを拾い上げる。

 

            た・す・け・て・く・だ・さ・い

 いつものように、ウォーキングに出た。夜8時すぎ。漆黒の闇を縫う幅3㍍ほどの舗装した旧道。古民家から滲み出る薄明かりの中へさしかかると、金属を擦り合うような男と女の声。屈み込み、目を凝らした。何も見えない。気の精か…。再び、歩み出した瞬間

 「た・す・け・て・く・だ・さ・い」

 巡らせた視線の先で、鈍く光った白い塊が浮かび上がった。人頭か。近づいた。

男が茂みの中で溝に落ちている。知った顔の妻の老女が蝋燭色の顔を引きつらせ、その背中に手を宛がっている。どってりした老体。胸を道路に擦り付け、伏している。手を引っ張り上げれば簡単なはずだが、足がついてこないのか。

 鬱憤が競り上がった。

 「普段は素知らぬ顔をしているくせに、こんな時だけ声をかけるのか」

 背後に回り込み、丸抱えにした太腿の付け根を渾身の力で押し上げた。重い。90㌔はあるか。男は金属声をキリキリ揉んだ。

 「よし、いけた」

 なぜか、励ました。

 今度は脇の下へ手を差し入れ、折れ曲がった膝をゆっくり伸ばす。思わぬスクワット。

「よっしゃ、立てた」

 なぜか、安堵した。

 男は道路で直立し、数㍍先の自宅の玄関へチビチビ歩き始めた。妻の老女も反対側から夫を支えた。 

「足、悪いんか」

「いや、足は大丈夫なんや」

 それなら、自分で這い上がれるはずではないか。それに、このチビリ足は一体、何。案の定、他人の見え透いたウソを許せないとき、だれもがそうするように、妻が目を細め、手を左右に、小刻みに振った。

「人間は独りでは生きられへんのや」

 浴びせた2度目の罵声が男の背中で弾け、飛び散った。

「この人はな、ちっぽけな、ちんきな精神世界に生きてるんですよ」

 話しかけられた妻は

「私にも心の世界はあります」 

 と、目を据えた。

 翌日の昼過ぎ、デイサービスの施設で雑談中、職員が来客を告げに来た。こんなときに、こんなところへ、どこの、だれ?。玄関へ向かうと、狡そうに嗤う肉団子に似た丸い赤ら顔のシジミ目と出くわした。昨夜のチビリ足。白い歯並が零れている。

 初めて見る笑顔。体の芯が凍りついた。

「きのうは、ありがとうございました」

「いいえ、大丈夫ですか。傷はなかったですか」

「ああ。家内がお礼に行ってこいて言うもんで…」

(家内が言わなければ来ないのか)

「人の世話にならずに生きてる者なんて、世界中に1人もおらんのや」

 肩を窄め、男はネジで巻かれた人形のように、ゆっくり踵を返した。へへっと嗤ったかもしれない。

 

 「おはようございます」「「こんにちわ」、「こんばんわ」―。移住して18年、男が挨拶に応えたことは1度もない。

 10年ほど前、ウォーキングで自宅の前を通りかかった。クルマの反対側に頭の先が見え隠れし、声をかけた。黙っている。またか。そのまま通り過ぎた。すぐに男がクルマで追い越し、隣村へ向かった。

 くねった山道の途中に軽乗用車が停まっていた。見上げると、光った頭が斜面で浮き沈みしている。雑木でも物色しているのか。鬱憤が炸裂した。 

「挨拶したら返事くらいしろ」

 木の葉が騒めき、野鳥が啼いたかもしれない。が、男は降りてこない。

 帰途、クルマが近づいた。運転席から金属線の声が延びてきた。

「目礼しましたやろ」 

 ウソだ!

「そうですか。それなら、私の方が失礼しました」

 助手席へ手を突っ込んだ。真冬だったが、男の分厚い手は温かった。

 

 3年後の夕刻。ウォーキングの途中、前から来たクルマが腰すれすれに停まった。

「乗りぃな」

 藪から棒に、ぶっきら棒に。男が前方を見据えたまま、運転席から誘った。心当たりがなく、黙ってぃた。数秒後、窓から顔を突き出し、

「なんや、人違いか」

 そのままアクセルを吹かし、後ろ脚で蹴飛ばすように発進した。

 

 去年の春。集落から10㌔足らずの隣の市の郊外に温浴施設がオープンした。料金は150円。男に知らせた。自宅の風呂が壊れ、30㌔先の道の駅の温泉に通っているらしいことを聞いていた。男は鉄面皮ですぐ反応した。

 「そら、ええこと教えてもろた」

 半年後、温泉で何度も出会った。話しかけても、むっくり顔をあげ、プイと目を逸らす。溝に落ちた日も来ていた。妻が休憩所でテレビを観ている。男が浴室からのっそり姿を現し、腰を下ろしている座椅子の真横を石像紛いの顔つきで通り過ぎた。2人ともこちらに気づいている。

 その4か月前、温泉への県道が台風による土砂崩れで通行止めに。復旧まで2カ月という標識が道路わきに掲げられたが、1月で解除された。男の自宅に出向き、教えてやった。

「ありがとうございます」

 赤黒い口元が微かに緩んだ。普通の社交辞令を初めて見た。

 その2年前、通院している医院の駐車場で出会った。夫婦と、独り暮らしの隣の老女の3人がクルマに乗りかけていた。顔馴染みの老女はのけ反り、声を上げて破顔したが、夫婦は口を塞いだまま。

 男の経歴は、関西の私大卒、営業職の2点しか分らない。定年後の20数年前、集落へ移住したらしいから、齢80はとうに過ぎている。