新うきさと通信 

三重県の山里から

      イヤならイヤと…

                言い訳の正当化

 見栄や体裁が人をがんじがらめに縛りつけ、どんなに自由にモノを考え、行動することを妨げているか。どんなに組織の健全な発展を阻んでいるか。町から集落に移住して19年、その「新鮮」な驚きは、今も続いている。最近の一例を。

 自治会の役員会議で提案した。決まったことを住民に周知し、納得してもらうための寄り合いを持つ必要があるのでは、と。「自分たちは何も知らされていない。声がかかるのはお金のことと、人手がほしいときだけ」という声をじかに聞いたからだ。

 昔は役員会議で決まったことを「組」という最小単位で組長が報告していた。尤も、意見や感想が話されることは滅多になく、みんな石像のように固い表情で押し黙っていて、その効用は限りなくゼロに近かった。が、それでも、集いの場を持つことで「民主主義」のルールは守られていた。

 それがいつの間にかなくなった。提案には反発めいた意見があった。あれこれの用事があり、そんなことをしているヒマはない。それを承知の上なのか、というものだ。「あれこれ」の中身は理解も納得もできるものだったが、どこかで屈折していて、真っ直ぐにこちらの胸に届かない。なぜか。「言い訳」がましいからだ。

 自然科学の世界と違い、人のココロの問題は結論が先にある。ニュートラルでモノを考えられないのだ。この場合は「したくない」という拒絶感が反射的にかまクビをもたげ、脳を支配、その正当化と補強のために「あれこれ」の理屈をつけているに違いない。おまけに、これによって「本来はすべき」という建前もなぎ倒され、聳え立つ「正義」の下に人々は屈服する。

 が、これは偽装であり、ウソが見え透いている。陰湿で、健全な人間関係の心棒である「信頼」を損ない、問題を解決できなくする。組織が腐っていくのだ。真面目に寄り合いの意義や効用について議論し、それでも結論が見えなければ「面倒なので、やりたくない」と告白すればよい。その正直が人の胸を打ち、新たな再生への道筋をつける。

 するべきことを「する」と決めれば、「あれこれ」の障害は乗り越えられる。飛行機を発明したライト兄弟の「空を飛びたい」という夢は、「空を飛ぶ」と決断したことで実現した。「やってみて、ダメならやめよう」と始めたのではない。ヒマがない、カネがない、人がいない、高齢者ばかり…すべからく、できない理由ばかりを並べたてるがよい。その挙げ句に何が待ち受けているか。答えは必ず出る。

 

 ◆…今回は、提案への次善の策として、決まったことがらを印刷し、各戸に配布

されていて、住民には評価されている。