新うきさと通信 

三重県の山里から

条例から矛盾が露わ…松阪市の住民協議会

            「行政がやるべきことなのに

 松阪市の43の小学校区にある住民協議会が5月で創立満10周年を迎える。文字面からは「住民の、住民による、住民のための」自治組織のようだが、実際はどうか。ここへきて、その取り繕いの矛盾が端無くも市が制定した条例から露呈、「行政がやるべきことを、なぜわれわれが…」と、地の底で巻いている悲鳴のようなトグロが日増しに太くなっている。

 ハッキリしているのは、この組織が住民側のやむにやまれぬニーズから生まれたものではない、という一点だ。議会などでは「住民への押し付けではない」と、「民」が「官」に働きかけたような印象を与える答弁をしているが、「民」にこんな憶えはないことは、たとえば宇気郷の住民協の役員に訊いている見ればたちどころに分る。

 平成28年3月17日付で施行された条例の中身は次のようなものだが、これをどれだけの住民、否、役員が読んでいるのか。

 (目的)

 第1条 この条例は、地域の住民等が身近な課題を自主的に解決し、地域の特性を生かして自律的にまちづくりを行う住民協議会に関する事項を定めることにより、市と住民協議会との間の基本的関係を明らかにするとともに、住民協議会の民主的かつ効率的な活動の確保を図り、もってまちづくりの推進に資することを目的とする。

 (住民協議会の認定要件等)

 第2条  市長は、地域におけるまちづくりを行うために設立した、次の各号のいずれにも適合していると認められる団体を、まちづくりの主たる担い手である住民協議会として認定することができる。

 (1)おおむね小学校区の範囲を区域と定めていること。ただし、他の住民協議会の区域に属する区域を範囲としてはならない。

   (2)住民協議会の名称、目的、区域、事務所の所在地、役員、会議等を規定した規約を定めていること。

   (3)その区域に居住する個人及びその区域で活動する団体等を構成員とすること。

 (4)自由な意見交換ができる民主的な運営が可能であると認められること。

 2  市長は、認定した住民協議会が次の各号にのいずれかに該当する場合は、前項の認定を取り消すことができる。

 (1)前項各号の規定に該当しなくなったと認められるとき。

 (2)解散したとき又は辞散したと認められるとき。

 (3)その他住民協議会として適当でないと認められるとき。

 (住民協議会の役割)

 第3条 住民協議会は 、まちづくりを行うにあたって、構成員の意見を事業に反映させ、地域課題の解決や地域の特性を生かした活動に、自ら積極的に取り組むものとする。

 2  住民協議会は、構成員のまちづくり意識の高揚を図るとともに、自発的に取り組む人人材の育成及び地域資源の有効活用に取り組むものとする。

 3 住民協議会は、構成員の参画のもとに、地域のまちづくりの将来像や基本方向を定めた地域計画の策定に取り組むものとする。

  4     住民協議会は、回の運営にあたっては、情報公開及び個人情報の保護に取り組むものとする。

(市の役割)

 第4条 市は、身近な地域課題の解決については、その自主性及び自律性に配慮した上で、住民協議会に委ねることを基本とし、住民協議会との間で適切に役割分担を図るものとする。

 2   市は、住民協議会の活動に関し、財政支援等必要な支援措置を講ずるものとする。

(禁止事項)

 第5条 住民協議会は、次の各号に掲げる活動を行ってはならない。

 (1)宗教の教義を広め、儀式行事を行い、及び信者を教化育成する活動。

 (2)政治上の主義を推進し、支持し、又はこれに反対する活動

 (3)特定の公職の候補者(当該候補者になろうとする者を含む。)若しくは公職にある者又は政党を推薦し、支持し、又はこれらに反対する活動

 (4)その他市長が不適当と認めるもの

 (事務の委任)

 第6条 市長は、第1条の目的を達成するために必要があると認めるときは、住民協議会を代表する者に対し、事務の一部を委任することができる。 

補則

 第7条 この条例に規定するもののほか、この条例の施行に関し必要な事項は、市長が別に定める。

(附則)この条例は、公布の日から施行する。

                頭が2つの怪物

 最大の矛盾点は、住民自治と市長の認定権を併記、両立させていることだ。住民自治を尊重するなら、行政の「認定」などいらないし、まして、その取り消し権まで取り込むに至っては、何をかいわんや、である。まるで、頭が2つある怪物ではないか。

 「自主・自律」、「自治」、「民主的」、「自ら」、「自発的」など、あちこちに住民意思の尊重を装った言葉が散りばめられているが、底意は透けている。最後に付け足しのように書かれてある「事務の委任」だ。本来、行政がやるべきことを民間に肩代わりさせようという思惑なのであり、「こんなことまで、なぜ、われわれがやらねばならないのか」と言った苦情や疑問の声が少なくない。

 行政の事務量が増え、多忙を極めているのなら、その実情をありのまま訴えればよい。その「誠」に触れたとき、民意は動き、快く協力するだろう。交付金という名の補助金にしてもそうだ。これではニンジンを鼻の先にぶら下げられた「アレ」と同じ扱いではないか。事実、宇気郷では、不祥事などがあった場合の公開を巡る議論の中で、「そんなことをすれば、市からカネがもらえなくなる」という゛声なき声が゛漏れている。

 地域おこしは、そこに暮らす住民の自由な意思によって成されるべきもので、行政が口を出す筋合いはない。必要があれば納税者たる「民」が相談や支援を持ちかけ、それに応ずるのが「官」の役割であり、住民自治の本質はそこにしかない。先の大戦による300万人の犠牲と引き換えた主権在民を核とする憲法の根本精神にそれは守られているはずだ。「官」の呪縛から、「民」の解放を。               

                 議会は再検証を

 解せないのは議会の動きも同じだ。市民の意思の代弁者であるはずの議員がどれだけ真摯にその声をすくい上げようとしているのか。過去2回の廃案によって、゛産みの苦しみ゛を乗り越え、条例施行からまる3年を迎えたというのに、その根本的な再検証をする気迫が感じられない。住民総会には顔を見せても、あの通夜のごとき重く、空疎な空気から何も感じ取れないのであろうか。試しに、自分の選挙エリアで無記名の広範な内容のアンケートを実施してみてはどうか。