新うきさと通信 

三重県の山里から

   「松阪って、どんなところ?」

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               匿名ばかりの投書

 「松阪って、どんなところ?」と、大阪にいる会社時代の同僚に電話で訊かれた。もとより、松阪牛本居宣長という、2巨峰を知った上での問いである。得たりやおうと、日ごろの疑問への答えを返した。「湿っぽい」。どういうこと?と、二の矢が飛んできた。「ひそひそしている」。それは、どこでも似たり寄ったり。日本は建前社会だから、と、尤もな三の矢。それでは、と例を挙げる。「新聞の投書がほとんど匿名」。受話器の向こうでウーンと、「なるほど」の響きを含んだ呻き声。
  3年前、友人の知り合い(新聞記者)を応援しようと地域紙を購読、何気なく開いた紙面に投書欄があった。ずっと都市暮らしの身には興味津々。身近なテーマで素朴な思いが綴られていて、「地域」への理解を深めてくれた。

 が、やがて、驚くべき奇態に遭遇。そのほとんど、すべてに姓名がないではないか。テレビなどでも顔を隠したり、名を伏せたりすることは珍しくなく、それを納得させる理由があるのだが、新聞や雑誌では滅多にやらないし、そんな投書は掲載されない。意見は名乗りとセットになっていてこそ社会から信頼され、説得力も生まれるからだ。

 さらに腑に落ちないのは、内容に政治色や世評の色合いがなく、家族の大切さや食の楽しみに関するありふれたものでも、正体を明かさないという点である。なぜか。社会心理学文化人類学の力を借りるまでもなく、「恥」と「恐れ」が合体した針の孔のような小世界での生存本能の故である。

 名乗れないくせに何かを言いたい―。品性下劣の誹りは承知の上だが、そこからは「トイレから出て、手を洗わない」、「風呂の中での放屁」を想う。キーワードは「卑屈・未練」。これこそ日本人、と言ってしまえば、それまでだが、かくもビクビク,ジメジメした陰湿な内向の場に、晴朗な志を持つ若者がやってきて、地域全体が活き活きと発展するであろうか。それも、これも、全ては子どものような「中2大人」の責任である。

 投書は1日2通。1年間の購読中、実名はゼロか1人だった。